昭和46年3月9日 夜の御理解
今日、高橋さんと夜色々話をしたんですけれども、合楽の願いが即、神の願いだというような表現を、いわゆるこう合楽は立派な他のものはつまらんようなとも、合楽以外のものの願いは神の願いじゃないように、あれはあの、金光教の願いは、そのまま天地の願いだという風に(?)、はたしてなら金光教の現在の願いが、天地の願いにかのうておるかどうかは(?)、とにかく私共がこの、天地の願いも、私共の願いも、同じであると、例えばいうところの一線上にでらなければ、(?)ね、久保山さんから、まあお話、まあ(?)、今朝の御理解を頂いておりますと、「魂を清める魂を清めるとこう言われるが、本心の玉を磨くのとどのように違いましょうか」て、(?)言葉が違いますからね、そりゃまあ本心の玉を磨くと言うても、魂を清めると言うても、まあ同じ意味合いだとこう思いますけれどね、そんならその魂を清めてまいりましたら、その本心の玉を磨いてまいりましたらね、そのどういう、その磨いた心がどうあらなければならないかということ、ね、ですからそれだけではやはり、それではうんなら本心の玉を磨くことだけが神の願いではなくてね、本心の玉を磨くことと同時に、その磨いた美しい心で、え~難儀な氏子のことを願うとか、社会の清まりを願うということで初めて天地の願いということになるのですね、ところがなら実際信心さして頂いておる者の実感として、一人一人の話、話を聞いてみてですたい、本当に社会の清まりとか、人の助かりとかということなんかは、実感として願えない、願っていないということ、ね、そすといくら合楽に御縁を頂いておる者、(?)も、なら合楽の願いは神の願いということにはならないわけです、ね、それで私共はですね、やはりそういう神様にお喜び頂けれる、神の願いとも思われるような願いが願えれる私にならして下さいという願いがまたいること、けどもまた、え~そのただそのことばかりを願たって、駄目ですから、やはり清まった心でそれが願えれるというところにですね、私は合楽の願いは神の願いということになるのであり、なら言うならば、金光教の願いが天地の願いだとお~、言えれる金光教にならなければならないということになるわけですね。
ですから皆さんの、例えば願い、清まるということも本心の玉を磨くということも、もう一生が修行ということは、もう清まることのために修行するのである、ね、一生が修行というて、え~、それこそ、お~苦しい事のように、おおかりというその林(?)さんの言葉じゃないけれど、その苦しい事だけが、修行で、まあ対象になったら、こんなつまらん、助かっていない人の姿なんです、ね、ただ助かって行く人の姿は、もうあれもこれも、いや言い分はないほどに勿体無いほどにおかげを頂きながら、ね、本心の玉を磨くということにおいて、修行が続けられて行くのだから、しかも本心の玉を磨くの願いとその心を持って、神様の願いとされる願い、ね、まあ手近なところから自分の周囲周辺の人のことが祈れれ、本当に世界の平和が祈れれ、世界の清まりが祈れるというところに、え~合楽の願いがそのまま神の願いだと言えれることになる、また今日高橋さんと話したことに、ね、それでは、そういう表現ではいかにも合楽だけが、その立派なような雰囲気が悪いから、金光教の願い、が金光教の願いが天地の願いであると、いう風にまあ、いう、そういう風に表現しなければいけないだろうと言ったことですがね、だから金光教の願いはそのまま天地の親神様の願いであるような、やはり教団全体の、お~願いがそこに高められた(?)、( ? )ですから、それが願えれる私になることをまた願わなければならんということになるですね。
どうぞ。
入力者:誠輝